映画の中のサイン
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第6話 秋刀魚の味
私の祖父は、津の出身です。実は、名匠、小津安二郎監督の母、あさゑさんの兄でありました。小津監督が20歳の時、大正12年(1923年)上京して、松竹キネマ蒲田撮影所に入社できたのは、祖父のつてだそうです。その祖父は終戦後亡くなり、私は祖母からその話を聞きました。祖母は、花柳徳紫という、私の敬愛する立派な舞踊家でした。

私の父は、若い頃から自由人で、役者に憧れ、小津監督に役者になりたいと、鎌倉の家に相談に行き、カメラテストまで受けたそうです。しかしながら、大部屋の苦しい生活に入っていけず、生活の安定の為、銀座松屋に勤めるようになりました。美術が好きだった父は、松屋に勤めながら、絵を描いたり、ステンドグラスのデザインなどをしていました。平野翠鈴という画名も名乗っていました。f0218826_10375764.jpg
私の幼い頃の思い出に、日本橋の狭い家の中で、深夜、大きなキャンバスに膠(にかわ)を使って日本画を描いていた、父の後ろ姿を思い出します。何日も徹夜をして、日展などに出品していた事を思い出します。また、銀座、日本橋、神田あたりの喫茶店のステンドグラスは、ほとんどが父の作品で、よく店に連れて行ってもらいました。

私が祖父と小津監督との関係を知ったのは、私が社会に出て働き始め、独立を決心した、27歳の頃でした。それから、小津安二郎監督の映画は、何度も繰り返し見ています。『東京物語』に尾道から上京した老夫婦を原節子が銀座松屋の屋上に連れて行き、東京の風景を見せる場面、日展のポスターのワンシーン、丸の内や銀座のビル群の風景、そして登場する家族たちの人物像、その全てが、私の家族や思い出とリンクしていきます。

私も社会人としてデザイナーになり、小津作品を何度も見ているたびに、私なりの小津作品の芸術論も深まっていきました。

とても容易に解釈しますと、日本人の美意識を探求し、それを人間の永遠的な生と死の物語として結晶させた芸術であると思います。
その一つ一つのシーンが、モダニズムを追求した、美しい絵画のような画面構成であり、登場人物の振る舞いや、台詞も能に通じています。いかに少ない要素で、人の思いや感情を伝える事ができるのか。その実験的なテーマを繰り返し作品にし、挑戦されています。

私の一番好きな作品は、小津監督の遺作となった『秋刀魚の味』です。その中でも、主人公の平山が通う、小料理屋やバーのシーンです。小津映画には、たびたび登場する、飲屋街の看板です。その看板の一つ一つも、小津のデザインによるもので、グラフィックデザイナーの河野鷹思が、松竹宣伝部勤務時代、手伝っていたと言われています。その看板の文字と色彩がとても軽快で、江戸の粋を感じさせます。
小津作品に登場するこうした看板やポスターは、戦後の日本の復興と、平和の幸せの象徴として、小津監督は描いたと私は考えています。

私も自然とデザイナーになり、サインを仕事とするようになりました。
北鎌倉円覚寺に、小津監督のお墓参りに何度か伺った事があります。1990年頃だったと思いますが、その円覚寺で出会ったお坊さんが、私に御朱印帳をつくって下さいました。小津監督のお墓参りから出発した私の御朱印帳は、今5冊目になりました。そして、私が50歳になった時、奈良吉野とのご縁を頂き、東京代官山から、仕事場を移転する事を決意したのでした。
今は、名古屋、東京方面に行く時は、津を経由して行きます。直接会う事のなかった、祖父や、小津監督の故郷の近くに私は導かれました。人生の流れと出会いは本当に不思議です。そして、小津監督の墓標にある『無』の意味と思いを、私も噛み締めています。

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ⓒ松竹株式会社




平野湟太郎(関東地区)



秋刀魚の味
1962年
監督:小津安二郎
キャスト:
笠智衆
岩下志麻
佐田啓二
岡田茉莉子 他
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by sda-cinema-p | 2010-04-05 10:40 | essey
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